新刊無料配信準備中+E. H. カーとハエ取り壷

新刊無料配信準備中

 

さて、GWのイベントシーズンが近づいてきました。準備中の皆様おつかれさまです! 今回はスパコミ等の同人誌イベントに申し込んでいないので留守番なのですが、先日のJ庭で無料配布させていただいた歴史ライターイアン・ワージングシリーズの短編を、kindleで無料配信しようと思っています。シリーズ三作目ということになります。三つになると、なんかほんとにシリーズっぽくなってきた気がします!(笑)

 

二作目のHistory: 低体温男子イアン・ワージングのハロウィーンはその後有料でちらほらお読みいただいていて(ありがとうございます!)、今後また無料化するのは有料で読んでくださった方に申し訳ないので、キャンペーン用の本を新刊に移行するつもりで現在kindle版制作中です。

 

 ←表紙は今のところこんな感じです。色具合等手を加えるかもしれませんが。

 

(kindleの無料配信は、うちのような規模の発行者は今のところ三ヶ月にい五日しかできません。うちの本は無料化できるものとできないものがあるのですが、できるものはリリース時に無料にし、その後有料デフォルトという流れを想定しています。いつもチェックして下さってる方々にはなるべくお得に お届けできるように、と願っております☆m(_ _)m)

 

『History…』がシリアス寄りだったので、今回は一作目のネガティヴ・ケイパビリティ: 絶食系男子イアン・ワージングのレイライン紀行の雰囲気に近いものにしようと、コミカル強めになっています。目標(?)にしている「BL版寅さん」の要素(主人公がけっこう惚れっぽい)を前面に出し、かつ初めてのゴーストライターの仕事をするという内容です。間に合えばGW中に、間に合わなければそのあとの週末あたりをめやすに無料配信をしようと思っています。ぜひ読んでやって下さい。

 

kindleをお持ちでない方は無料アプリでお読みいただけます。こちらからぜひどうぞ。

 

kindle無料アプリ

 

 

E. H. カーとハエとり壷

 

  

上記イアンさんシリーズの参考に、と歴史学者/国際政治学者のE. H. カーせんせ著書を読み始め、いつのまにかご本人のファンになってしまったのですが(笑)、ご本人の生涯が書かれた評伝誠実という悪徳を先日ようやく読了しました。

 

うちにあるカーせんせ関連本で記念撮影❤(右の二つは著書)

残された資料が極端に少ないそうで、写真も年表もないのがすっごく残念でしたが、意外にも四回も結婚していたり(女たらしというのではなく、99%くらいは仕事のアシスタントの役割を奥さんに頼っていて、その他の部分の配慮がないので関係が壊れていき、その悩みを相談した別の女性に依存するようになり……というパターンの繰り返し。ある意味始末が悪い(^^;))、生い立ちの関係かわりと心身症だったりとご自身のいびつなところと、仕事の中身や考え方の立派さのギャップも興味深いです。お顔が好みと言うのではマッタク無かったのですが、最近はハンサムに見えてきました。末期症状です。(笑)

 

で、その後ある本にこの方の対談記事が含まれていることを知りました。それが『ハエとハエとり壷』。絶版なので図書館で借りました。

 

表紙絵は漫画みたいですが、バートランド・ラッセルを描いたスケッチとのこと。(アマゾンの画像を借りました)

 

 元は(当時旬だった)イギリスの哲学者・歴史家を題材にニューヨーカー誌に連載されたシリーズだそうで、目次には私でも聞きかじったことがある名前がいろいろ出てきます。読んでるのは目的の歴史家つながりのパートですが、カーのほか、彼の論争の相手でカーの著書でも折々言及されていて馴染んでいる(笑)アイザイア・バーリン(上記の本では「アイザー」・バーリン)等、そしてイアンシリーズでもネタにさせて頂いたアーノルド・J・トインビーさんなども扱われています。ただ、描写は対談形式というより、著者のヴェド・メータ(ガンジーを取材した本で知られてるらしいです)が彼らを題材に自説もからめてエッセイを書いてる感じ。その中ではカーはかなり現場の雰囲気・やりとりがわかる書かれ方で、ケンブリッジの自室で裸足にサンダル履きだとか、評伝ではまったくわからなかったナマの感じが想像できて楽しんでます。

 

「ハエとり壷」の由来は本文前に引用として掲げられているのですが、すごくいいなーと思う言葉で。

 

哲学の目的とは何か。それは、ハエにハエ取り壷から脱け出る道をさし示すことである。

(ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学的探求』)

 

個人的には哲学をきちんと学んだことはないし、通過儀礼的に若い頃目に付いた本を読み齧ったに過ぎません。でも、「実践的な哲学」と「哲学史の研究」は別物じゃないかな、という感じは受けていたので、ひとりひとりが使うもの、という意味での定義はパンピーとして受け入れやすい言葉でした。

 

ちょうど今朝の朝刊にこんな記事がありました。

 

哲学って「使える」の? 鷲田清一さん、明治学院大で特別授業

 

「暮らしやシステムを、ゼロから立ち上げ直さなくてはいけない時代。手放してよいものは何で、はずせないものは何か。それを見極めるための方向感覚は、哲学やアートによって身につけられる」

(若い頃読んだ哲学書について) 「さっぱり分からなかったけど、人の心をわしづかみにする言葉が散らばっていて……」など、ちょっとつながるものを感じました。

 

まだ自分の理解は浅いのですが、歴史を書くのに「歴史哲学」がなぜ必要か、というあたりをカーせんせは書いていて、これまでそういう視点は持ったことがなかったのでなるほどなー、と思いました。でもぱしっと白黒つけるってものじゃないんですよね。この方のそういう、両義的なところをそのまま書いてくれるところがリアルで好きなんですけど、トインビーからは分析だけで方策がないと著書にツッコミ入れられたそうですし、現在のネット等の「わかりやすさ」が好まれる世界でも、なかなかウケにくい芸風(?)かもしれません。

 

コケオドシ的な難しい表現は自分も嫌いなんですが、わかりやすさ・敷居の低さを過度にもてはやすのも、ある意味リアルから離れることになりますよね。自分自身の問題として、ぱっと見てすぐわかるものしか受け入れられなくなったらちょっと危険だな……とか、そんなことを最近よく思います。…まとまりませんが本日はこのへんで。