【お試し読み】脳人形の館

私は、森のなかのとある館に向かっていた。親友のクリフォード・ブラッドレーが亡くなり、遺言によって、彼の館が私に託されたのだ。親友…かつてはそうだった。

 

『引き返せ。おまえにそれを受け取る資格はない』

心のなかに響く声が、私の足を重くさせた。だが私は来てしまった。彼が家族もなくたった一人で、七年間何をしていたのか…確かめずにはいられなかったのだ。

 

思えばここへ足を踏み込んだとき、すでに私は選んでいたのかもしれない。すべての罪を受け入れることを――。


館はオークの森に隠れるように、ひっそりと建っていた。幾星霜を耐えてきた石組は湿り気を帯び、蔦が這い回るにまかせた壁が、訪問者を拒むように…そして中にあるものを守るように、そそり立っているのだった。

 

建物の角には装飾用の古風な小塔があり、頂を巡る胸壁はところどころ欠け、もう百年も打ち捨てられているように見える…ほんのひと月ほど前まで、クリフが住んでいたとは思えなかった。あの快活なクリフが――――どちらかといえば内向的な私を、数々の社交の場に連れ出してくれ、学者仲間の会合では魅力的な主人役を務めた彼が…こんなところに七年間も閉じこもっていたとは。

 

その責任の一端は私にある。ずっと胸を締めつけていたその思いがにわかに激しくなり、私は歩みを止めて目を閉じた。…だがあのときの私に、いったい何ができたろう?

 

中に入ると、うら寂しさはいやが上にも増した。玄関の小さなホールにも、ほこりと冷気が淀んでいる。一階をひととおり見て回り、どうやらその階でクリフが使っていたのは二部屋だけらしいとわかった。書斎と、寝室である。二階への階段にはほこりが積もっていたから、使っていなかったのだろう。もちろん一人住まいではそれで充分だったに違いない。…しかし私はショックを受けた。几帳面だった彼が、使う部屋以外をこんなにも放置し、まるで廃墟に住むような生活を送っていたとは。

 

書斎として使われたらしい一番広い部屋は、書棚にぐるりと囲まれていた。大きな机とスチールのファイルキャビネットがあり、仮眠用なのか粗末なベッドも入れてあった。彼がよく研究室に泊まり込んでいたことを思い出した…夢中になると、彼は家に帰ることを忘れてしまうのだ。

彼の生き生きとした側面が、そこにまだ残っているように感じられ、私の息苦しさは少しゆるんだ。彼はけっして、ここでただ幽霊のように過ごしていたわけではないのだ。

 

彼らしく整理された机の上を眺めると、いよいよ生前の彼のことが思い出された。日誌と大きなカードケース…彼にはZから逆に並べる癖があった。

暖かい思い出が私を包み、我知らずほほえんだ。年毎に並べられた日誌の、最初のものを手に取った。一九六五年。つまり彼がここへ移った七年前だ。

持ち上げたとたん、挟まっていたものがばさりと机に落ちた。

 

分厚い手紙の入った傷んだ封筒と…ちぎれた写真だった。見覚えがあった。クリフはこの写真を、私に焼き増ししてくれたのだ。そこにぎこちなく微笑んでいるのは、ほかならぬ私…二十年近くも前の、結婚式での私だ――――


 

 

「ピーターもっと笑って!顔がひきつってるぞ!」

 クリフはファインダーを覗きながら、よく響く声で冷やかすように言った。ヘレンが私の上着に挿した花を直してくれ、私とヘレンは肩を寄せてクリフのほうを見た。精一杯の笑顔を作った。たしかにひきつっているのが、自分でもわかった。

 

学長の邸宅の中庭を借りた、内輪での結婚パーティーだった。六月の空は気持ちよく晴れ、地味ながら美しく装ったヘレンは、薔薇の花束を持っていた。私たちはもう若くはなかったから――二人ともすでに四十代だった――派手なドレスは避けたのだ。しかしヘレンの選んだブルーのドレスは、彼女のゆるくウエーブがかかったブロンドに映えた。私はパーティーの間たびたび見とれたものだった。そしてこれからずっと、彼女がそばにいてくれるのだという喜びと、限りない安堵を感じていた。やさしいヘレン。私の愛しいヘレン。なんと輝いていたことか。

 

「…君は幸せ者だな」

クリフは買い換えたばかりのカメラのフィルムを交換しながら、私に言った。彼はその頃写真に凝っていて、研究室の資料を撮影するのはもちろん、人が集まるたびに片っ端から写真を撮っていた。

思えばその少し前まで、彼は私のことを「カークランド教授」と呼んでいた。彼が共同研究の話を持ってくるまで、私たちは互いの名前を知っている程度で、ほとんど接点がなかったのだ。

もちろん私のほうは、彼の輝かしい業績をよく知っていた。九歳年下の俊英であり、彼からの共同研究の申し入れは、私にとって光栄なことだった。彼は私の、電磁気による予後不良骨折部の再生研究に興味を持ったのだと言った。

 

大戦から十年以上経過していたが、戦時下で損なった体を抱える人びとはたくさんいて、形成外科学でやるべきことは山ほどあった。私たちの研究範囲はその後どんどん広がり、神経細胞まで扱うようになっていった。協力関係はその後ヘレンの死まで…七年前のあの日まで続いた。辛い思い出だ。

だが結婚したあの頃は、やっとクリフから「ピーター」と呼ばれるのに慣れ、私も彼を「ブラッドレー教授」でなく、「クリフ」と呼ぶのに違和感がなくなり始めた時期だった。

 

 私たちは飲み物のテーブルのそばに立って話していたが、私は別のテーブルにいるヘレンを見ていた。学長の長い話をにこやかに聞いている、慈愛に満ちた姿を。…たしかに私は幸せ者だ、という思いが、しみじみとこみ上げた。だがもちろん、そんなことは照れくさくて言えなかったので、こう言った。

「なに、すぐに君の番だろう」

 …私はなんということもなく、そう言ったのだ。プライベートなことはほとんど話したことがなかったが、ごく自然な想像だった。長身で、黒髪の男らしい容姿と優れた話術を持つ彼が、学内で…そしてそれ以外の場でも、多くの女性の目を引いているのはよく知っていた。本人がその気にさえなれば、すぐにでも家庭を持てただろう。経済的にもなんの問題もなかった。もともと裕福な家の出である上に、共同研究を始める前に数々の論文で受賞し、いくつか特許も取っていた。苦学して研究者になった私などとは、社会的地位も財産も違っていたのだ。

 

 クリフは一瞬手を止め、それまでの笑顔が不自然に張り付いた。…私は自分がまずいことを言ったのだと思った。私が知らないだけで、誰かと破局したばかりなのかもしれないと。

だがクリフはすぐに笑顔を取り戻し、私に微笑んだ。

「…そうだな。きっとそうなるよ」

 私は安心した。…私は知らなかったのだ。何も知らなかったのだ。


  六月のまぶしい光の中から、薄暗い書斎へと引き戻された。…机の上に落ちた黄ばんだ写真はちぎれている。横にいるヘレンの肩先と、胸の高さに持った花束の一部が、切れ目のあたりにかろうじて見えた。

 写真と一緒に落ちた封筒を、私は拾い上げた。封はされておらず、表にかえすと、私の名前が書いてあった。住所も切手もない。フルネームでさえなく、ただ「ピーター」と書いてあった。

 

 私は封筒のなかに手を入れ、便箋の束に指先で触れて、一瞬躊躇した。読んでよいものか。一九六五年の日誌に挟まっていたこの手紙は、素直に考えれば、七年前に書かれたことになる。封筒の傷み方を見ても、最近のものとは思えなかった。しかしそれを捨てなかったのならば…そしてそれを受け取るべき人物が自分ならば…。何より、この書斎を含む館全体を私に託すのが、彼の遺言であったならば…。

 私はどこかで後ろめたさを感じながらも、便箋を開いた。